野田國廣

水稲/畜産/野菜/飼料用作物

自分の力なんてありません。みなさんにここまでなしてもろうたんです。

若宮運送有限会社、有限会社響生、扶桑倉庫運輸 株式会社と3つの会社を興してきた野田國廣社長は、さらに農業を始め、現在どれも現役でこなしています。

このバイタリティの源は、「感謝」という言葉でした。

 

認定農業者の中でも最年長の國廣さんは、現在78歳。

「まだ、77、8にしかならん」とご本人はおっしゃいます。

 

大きなトレーラーから颯爽と降りてくる姿は、まさに現役。

 

 

あなたたちの情けで育ちました。

國廣さんが3歳にもならない頃、父親が沖縄で戦死しました。

父親は2歳の頃に野田家に養子にきたため実子ではなく、その嫁として母親は毎日肩身が狭い思いをしながら一生懸命に働いていました。

ところが、國廣さんが小学4年生のある日、腰の痛みに耐えられなくなっり、病院を訪れたところ子宮がんがみつかり入院します。

 

その頃、コバルト治療が効くという話を聞き、自分の血を分けた娘でもない嫁のために、自分の田畑を売って久留米で始めてのコバルト治療を受けさせてくれたおじいさん。

1年間にわたった治療もむなしく、小学6年生の始業式が葬儀の日となりました。

 

親族会議で、國廣さんをはじめ3人の子供たちを施設に預ける話になりましたが、おじいさんは火鉢の横に座って「俺が首に袋を下げてでも自分が育てる」と言ってくれ、小作として働きながら國廣さんと妹たちを育ててくれました。

結婚してから國廣さんをずっと支えてきた奥さま。

34歳で運送業をはじめ順調だった頃、突然の神様からのお告げに従い山に籠った時も、ひたすら信じて見守ってきました。

 

ずらりと並んだ農機具は、12町の田んぼと6町の畑で活躍するものです。大型の耕運機をはじめ、じゃがいもを掘り起こす機械などあまり見かけないものがずらり。

 

この2m30cmある大きな仏壇は京都で作ってもらいました。

國廣さんは、毎朝晩、民の豊かさと多くの方の幸せと英彦山の発展を祈っているそうです。


戦死した父親に会いたかった。

40歳頃までは、人が避けて通るほど棘のある人間だったとう國廣さんが、どうしてすべてに感謝をする人になったのでしょう。

 

それはある朝のこと、戦死した父親の霊に一目会いたいという思いが募っていた頃、突然に手が動き始め、これは何かと尋ねたところ、英彦山の豊前坊という大天狗の声がしてお告げを受けました。

 

気の強かった國廣さんがお告げに従わずにいると、一日に何度も倒れたそうです。

そして、会社も家も大丈夫だというお告げを受けて山に籠って修行しました。

 

そして約20年ほど前、「これから財産が増える」というお告げがありました。

新規就農のため久留米から出て宮若市の農業振興課に通い、たらい回しにあって、もうやめようと思った頃に5反まとめて売ってくれるところがあり、これで百姓の仲間入りができると喜びました。

 

その後、上有木で競売物件が次々に出てどんどん増やしていきました。

おじいさんに返したいと頑張ってきた毎日でした。


契約農家として作っている野菜たち

にんにく、白菜、キャベツ、ソラマメ、玉ねぎを栽培しています。

 


もみすり機、乾燥機、色彩選別機、乾式無洗米機、石抜精米機も完備。


まだまだ夢を実現させていきます。

□ 障がい者の方々が就労する場を作る

約10年にわたり障がい者施設へ寄付を行ってきました。

ある日、寄付のお米30俵を施設へもっていったところ、顔も出さずに「そこに置いといて」と言われ、お米を下ろし始めましたがだんだんと腹が立ち、川に全部投げ捨てて帰ってきたこともあるそうです。

 

寄付を受けることが当たり前になって感謝がなくなることは悲しいことだと国廣さんはいいます。

 

その中で多くの障がい者の方々が仕事を求めていることを知り、就労支援を行いたいと準備してきたものが、形になってきました。

□ 娘のためにふれあい牧場を作る

アメリカから35年ぶりに娘さんが帰ってきました。

「娘が一人前になって六次化までできて落ち着き、いっぱしに立ち上がってしまうまで現役を続けます。」

宮若市だけでなく宗像市にも大きな農地を持っている国廣さんは、宗像市にあるみかん畑6町の部分に牛を何頭か飼って、観光牧場をしたいと思っており、レストランを作り、ふれあい牧場をする計画を立てています。

 

そこでは、ものづくりの好きな娘さんがチーズ作りを教えたりできます。